新あんこのログ

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脳出血(脳幹延髄小脳)障害2要介護2

3回めの入院(6)ICU文字盤会話の始まり

手術後、ICUには4,5日いました。

貴重なICU体験ですが、制約が厳しく写真撮影も禁止でした。そのため、ICUがどんな場所だったのか、私にはまったく分かりません。記憶は明確にあるのに、何週間も経ってからじわじわと「あれは、すべて幻覚だったんだ」と気づいたほどです。

おかしな発言をしていたらその場で指摘もされたでしょうし、あとになって「あのとき、こんなこと言ってたよ。幻覚みてるんだなあ、と思った」とか言われたのでしょうけど、なにしろ声が出せなかったので、そういう証拠は残さず、私の記憶の中だけに残った幻覚です。

 

貴重な体験――恐らく(というより、出来れば)2度と入らない、関係者以外立ち入り禁止のICUの様子を覚えていないのは、なんか残念です。

 

ちなみに、手術後意識を取り戻してから、一度も手術の痕を痛いと思ったことはありません。痛みが完全になくなるまで、十分痛み止めの点滴がされていたのだと思います。

 

 

 ※茶色文字の部分は、幻覚の記憶も含まれます。

 

ICUの部屋は個室の病室2つ分くらいの広い部屋でした。

ベッドはダブルベッドほど広く、手の届く位置にティッシュやナースコール、吸引カテーテルなどが置かれていました。

→あとから夫に聞いたところ、ベッドは普通のサイズだし、テレビで観るような、横にズラリとベッドが並んだ部屋だったそうです。

 

 

ICUでは、一患者に一看護師が付き、頻繁に世話をしてくれました。

看護師の目が届くせいか、安全帯はしていませんでした。

手術の傷もあり、まだ頭にはドレーン(チューブ)が2本入っていましたので、安全帯をされていなかったとは思えない気もしますが、このあと、また流動食問題で、拘束されるから嫌だと騒ぎましたから、本当にしていなかったのかもしれません。

吸引カテーテルも、自分で出来るように看護師さんが細工してくれたものが手元にあったと思います。

看護師さんが離れるときは、手にしっかりナースコールを握らされて「なんかあったら、すぐ呼んでね」と言ってくれました。

 

たくさんの点滴をされていました。複数つなげる(バイパス)点滴の山が、両手に2,3個あったと思います。

動脈にも1つ点滴が入っていました。血圧を連続で測定するためのものだ、と説明を受けていたのですが、ほんとにそんなものがあるのか、と今ぐぐったらありました。

が、その時の記憶では「連続で測定して、一定時間ごとに測定結果をGPSに送る」と聞いていた記憶があるのですが、さすがにこれは幻覚だったと思います。

こんな風に、現実と幻覚の境目がない状態で覚えているのです。

 

喉がひどく渇いて、宙にある複数の点滴を恨めしげに見上げていました。

「あれが多分、水分補給のための点滴。点滴液でいいから飲みたい」と思いました。

 

ちなみに手術後から喉には気管へカニューレを刺されていたので声が出ず、言いたいことは文字盤を指して伝えていました。

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夫が来たときに「水が飲みたい」と伝えました。

飲んではいけないのでダメと言われたのですが「少しなら、水なら飲んでもいいって言われた。本当だよ」とうそをついて、水を買ってきてもらいました。夫がペットボトルのキャップにわずかな水を注ぎ、それを口に含みました。冷たくておいしかったのですが、やはり飲み込めません。ちょうどそのタイミングで看護師さんが入ってきて「ああ! だめ!」と取り上げられました。夫は「おまえ、嘘ついたのかよ……」とあきれながら怒っていました。

でも嘘ついてでも飲みたいほど喉が渇いていたんです。点滴飲みたいと思っていたくらいですしね。

 

幻覚を見ていましたが、起きているときはぱっちり眼を開いてあちこち見まわしていましたし、話しかけられたことに、文字盤を使ってしっかり答えていましたから、看護師さんや先生は、私の意識がはっきりしていると思っていたようです。

 

「あんこさん、退屈でしょ? ラジオ聞く?」と、看護師さんがラジオを持ってきてくれて、FMを流していてくれました。この番組の内容と幻覚が重なったりして、今思えば、病室にありえない、不思議な光景を見聞きしていました。

リハビリ病院や、今通っているデイサービスでもFMをかけています。FMを聞くと、このICUで見ていた、いろいろな幻覚を思い出します。

 

手術後、先生はまず私の右足を心配していました。先生のテストの指示通りに動く様子を見て「良かったあ。手術中、(モニターの)右足のアラームが鳴ってたんだよ。麻痺が残るんじゃないか心配だったんだ」そうです。

麻痺はしていませんが、失調度合いが左より強いのは、そのせいかもしれません。

 

ICUで数日経った頃、看護師さんが、おなかに聴診器を当てて音を聞いていました。

ICUの看護師さんは、やっていることや今起きていることを、よく説明してくれました。

「腸が動いてるか確認してるの。食べないで使わないでいると、腸も怠けて動かなくなっちゃうのよ」

どうやら全くお通じが出ないので、確認していた様子です。入院してからの2週間、手術の少し前に1度あっただけで、まだおむつは汚していませんでした。それに、そろそろまた点滴栄養から流動食に切り替えようとしていたようです。

お通じが出易くなる点滴も追加されました。

いつの間にかそれが、私の目にはプルーンのペーストに見えていました。お通じを良くするプルーンですが、点滴で血管に入れるわけがありません。しかし私の目にはその点滴がプルーン100%のペーストに見え、それを食べさせてくれるなら、おむつにしてやってもかまわない、と考えていました(偉そう)

私に便通がないものですから、プルーンペーストは大容量になりました。おなかが少し痛くなったりしましたが、おむつにするのは嫌で我慢していました。

 

当時の私は、一般病棟に移り数日もすれば、動けるようになると思っていたのです。

これは1回目と2回目の入院の時の同室者が、そんな感じだったからです。

手術後、数日ICUに入って、一般病棟に来てからすぐ動けるし食べられる、1週間もしないで抜糸して、10日以内に退院していく人ばかりだったので、自分もそんな感じになると思ってたのです。

今思えば、後遺症もなく、順調に回復している人ばかりだったのでしょうが。

 

 

とうとうまた、流動食の話になりました。私は全力で拒否しました。先生がまた説得に来ましたが、今度はけして首を縦には振りませんでした。先生も一旦諦めることにして「分かった、もういいよ。まだしばらくは点滴で」と看護師さんに告げて出ていきました。

看護師さんは「なんでそんなに流動食がいやなのかしら……」と言いながら、私を困ったように見ました。普段は世話をしてくれる看護師さんたちに、ニコニコと接していましたが、その時の私は怒った顔をしていました。

 

看「怒ってるの?」

私「(頷く)」

看「何かあったの?」

私「(頷く)」

看「なに? 何があったの?」

 看護師さんが差し出した文字盤を、いくらか叩くくらいの勢いで指し示しました。

私「こ う そ く さ れ た   い や(文字盤)」

看「こうそく? 拘束?」

私「(頷く)」

看「拘束って?」

私「(手首をつながれているようにして、ベッドの柵を叩く)」

看「ああ! 安全帯されたの?」

私「(頷く)」

看「ほんとに? 脳外ってそうだったかしら? でも、ここではしないよ。しないならいいの?」

私「……。(考えてから頷く)」

看「そう。それは嫌よねえ。あんこさん、意識クリアだもんねえ。分かった、先生に言ってくる」

 

しばらくすると、看護師さんが先生を連れてきて、先生は「あんこさん、流動食で安全帯されたんだって? そんなこともうしないよ。嫌だったね、ごめんね」と言いました。

先生は知らないことなのか? と思いましたが、そういう看護のルールは、医師の知らないこともあるのかもしれませんし、私が安全帯をとても嫌がっている、かつ意識ははっきりしているので、見守りさえすれば、安全帯はしなくてもよい、という看護師と医師の判断になったのかもしれません。

 

 

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☆この記事は2010年代初出のものを身バレ防止のため時期をぼかしてリライトしています。

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