3回目の入院(24)急性期2ヶ月ギリギリ 看護師さんたちが見送ってくれた
再出血のあとは、それほど大きな後遺症が新たに出現することもありませんでした。
といっても、考えてみれば、左手の揺れはこの後ひどくなったのでした。
出血前は揺れながらも一応筆記の練習は出来ていたんですが、出血後は揺れ方がひどくなり、筆記できる状況ではありませんでした。
残念ながら、これは今もです(リハビリサボってるせいもあると思いますが)
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転院2週間くらい前から、唾液を取るカテーテル吸引はほとんどしなくなり、ティッシュに吐き出すようになりました。起き上がれるようになったのもあると思います。
しかし、なんのせいなんでしょう? 「ペッ」と力を入れて切れないのです。舌の力がない、舌のコントロールが出来ないせいかもしれません。軟口蓋が閉じないせいもあるかもしれません(今はそれでもぺっはできるようになりました)
ペッと出来ないのって、出し切ったっ感がなくて、すっきりしませんでした。
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スピーチカニューレは、構造的に器官が乾燥しやすく、カニューレの管やその周りで痰が乾燥して固まり、呼吸がつらくなることが増えました。その固まったものを緩めるために、寝る前、または苦しくて目が覚めた夜中にネブライザー(吸入器)をしてもらいました。
口や鼻からするのではなく、カニューレを射している首部分に酸素吸入器のようなマスクをして、直接カニューレに当てます。しばらくすると、こびり付きが緩くなり、吸引してもらうとすっきりすることもありますが、カニューレの管と気管の隙間にある場合はあまり効果がありませんでした。
嚥下も呼吸もカニューレが器官に入っていることで余計に困難でしたので、早く外したくて仕方なかったです。
でも、カニューレをいつごろ外せるというめどは立ててくれず、私の容態次第では一生付けることもあると言われていました。
動けるようになり、何とか話もできるようになった退院間近な頃、担当医は私を見て言いました。
「随分回復したよね。もう見た目はどこも悪いように見えないよね。そういう声、そういう喋り方の人だっているし。問題はカニューレだな。普通の人から見たら痛々しいもんな。あ、でもスカーフとかすれば問題ない。わかんないよ」
いや、スカーフ、夏はしないし……
と思ったのでした。
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私の部屋は大部屋でも重症の部類の人が入っていたので、みな退院ではなくリハビリ病院に転院していきました。
4人部屋ですが、私は入院期間が長かったので、5人くらいの人を見送りました。
それぞれの患者さんが、カーテン越しにリハビリ病院選びをしているのを聞きました。
家から近いところ、設備がいいところ、公立で安いところ、リハビリの特色などで、それぞれ検討しているようでした。
私にそれらを検討する持ち札はなく、3つの中から「気に入ったところ」ではなく「消去法で残ったところ」を選択するしかなかったので、それまで耳にした、ほかの方のリハビリ病院情報を検討する権利さえありませんでした。
リハビリ病院への転院自体、嫌なのに、自分のこだわりを生かすことすらできないとは。
ふ…っとわびしさのようなものを感じました。
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夫には、家が近かったので、ほぼ毎日来てもらいました。
ベッドから出るには、看護師さんを呼ばなければいけなかったのですが、家族がいれば、車いすで散歩など自由に出来ます。その自由欲しさです。
夫が来ると、意味もなくデイルームに行きます。
興味のないテレビ番組を少し見て、それから病棟を一周します。
どれも、求めていたものではないですが、ベッドから動けず、同じ風景を見ているよりずっと新鮮です。
昼間から夫が来た時は、外に散歩に出ました。
入院前はもうすぐ桜が咲く頃でしたが、外に出られるようになった頃は、もうつつじが咲き始めていました。
散歩のコースもいつも同じで30分もしないで戻ることになります。それでも、外気に触れられるだけでわくわくしました。
一人で眠くもない時は、じーっと横になったまま、何時間も外を見ていました。
朝方なら、向かいのマンションで洗濯物を干す様子を、心からうらやましく見ていました。洗濯を干せる健康状態って、ものすごくありがたいことだったんだなあ、と思いました。
夕方から夜にかけては、夕焼けからとっぷり暮れるまで、看護師さんがカーテンを閉めに来るまで外を見ていました。
遠くに見えるショッピングセンターのネオンが付いて、人々が行き来する雰囲気が分かりました。スタバが見えて、また飲むことは出来るんだろうかと考えました。
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食事のとれない私にはもちろん食事はなく、日に3度、周囲の人が食事をしているのをカーテン越しに感じていました。
幸い(?)、カニューレのせいなのか嗅覚障害が出ていたのか匂いが全く分からなかったので、おいしそうな匂いに誘惑されることはありませんでした。
経管栄養はしているので、まったくおなかはすかないのですが、それと「食べる楽しみ」は全く別物です。食器の触れる音、ポリポリいう歯ごたえの音が羨ましかった。
入院後、1週間くらい絶食していた患者さんは、仲間がいる感じがして少しうれしかったです。
でも食べられるようになると、見舞いに来ていた家族や友人に「1週間も食べられなかったんだよ」と愚痴をこぼしていました。
私はすでに1か月以上食べていません。今後も食べられるようになるか分かりません。「たった1週間で嚥下できるようになって良かったね…(ちょっと嫉妬)」と思ったりしました。
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人工呼吸器が外れたあとも、指の酸素濃度計と寝るときの酸素マスクはしていました。
私としては、正常に呼吸しているつもりなのですが、なにしろ息が止まって意識不明になったせいか、その点は最後まで注意深くみられていたようで、ナースステーションに飛ばされている私の酸素濃度が95とかになると、看護師さんが飛んできます。
普段は100や99あっても、少し動いたり濃度系の位置が悪いと下がってしまうのです。担当医は97以下になったらアラームが鳴るように、様子を見るように指示していたそうです。
でも、97なんて普通ですよ。健康で正常な呼吸していても出る数値です。
転院前、そろそろいいかと、一度寝る前のマスクは外されたのですが、どうも私は寝入り端に呼吸が浅くなるらしく、うとうとッとすると、すぐ看護師さんが飛んできて「やっぱり、寝てるときだけはマスクしましょう」とされました。鬱陶しいので、後からマスクは勝手に外して寝てたんですけどね。
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退院、というか転院は朝10時でした。前の日に、次の日休みになる看護師さんにはお礼を言いました。
特に仲が良かった看護師さんのうち二人は夜勤明けだったのですが、帰らず、私のベッドに来て別れを惜しんでくれました。
「疲れてるでしょ。帰っていいよ」と言っても、二人とも「いいの。ちゃんと見送るから」と、いてくれました。
一人は初めて入院して以来、いつも担当してくれている馴染みの看護師さんで、手術の後、ICUに見に来てくれて「良かった~」と言ってくれた方です。
もう一人は途中でも書いた、年中怒られていてもくじけない前向き看護師さんです。この二人とは、特に友達のようにお話していました。二人とも少し泣きそうになっていて「え? そんなに思ってくれてたの?」と、意外なほどで、うれしいやらありがたいやら。
介護タクシーの迎えが来ましたが、二人もエレベーターまで送るから、とついてきてくれました。車いすを押されながら、廊下にいる看護師さんたちに「お世話になりましたあ」と声をかけていたら、ぞろぞろと看護師さんたちが集まってきて、エレベーター前には、10数人の看護師さんが見送りに来てくれました(´;ω;`)ウゥゥ
心づけを固く辞退だったり、そういう面では固めの病院でしたし、過去の入院では、もちろん、見送りなどしてもらっていませんし、ほかの患者さんの見送りも見たことはありません。
業務中にわずかな時間とはいえ、持ち場を離れるのは本当はいけないのかもしれませんが、それでもみなさん見送りに来てくれたのです。
目を赤くしている看護師さんもいっぱいいました。こんなに思われていたのかと、胸がいっぱいになりました。
私は泣かない人間なので泣きませんでしたが、普通ならここで泣くよな、と思う状況でした。
3度目の入院で、看護師さんも顔見知りが多かったです。それはつまり、私が元気(この時よりは健常)な状態を知っているということで、今回の容態急変→手術は、感じるものがあったのかもしれません。
手術後あちこち管だらけ、人工呼吸器、無数の点滴、モニター音、手術でむくんでいる顔でベッドに繋がれていた時、ある看護師さんは「こんなあんこさん、見るのやなんだよ。私、あんこさんの元気な姿も知ってるんだもん」と、つらそうな声で言われたこともありました。
駄々をこねたり困らせたりもしました。むかつくこともありました。
でも、やはりみなさんプロ意識だけでなく、情を持って看護してくれていたのでしょう。
「もう入院してきちゃだめだよ。でも、外来で来た時には絶対病棟にも寄ってね」と言ってくれましたが、私はまだ病棟に行っていません。
感謝の気持ちが強いので、「まだ車いすなんだ」と、がっかりさせる姿を見せたくないのです。
ただ顔を見せに行くのではなく、せめて杖ででも「立った姿で」会いに行こうと思っています。
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昨年、数年ぶりに再出血で入院しましたが、さすがに知った顔はもう全然ありませんでした。大病院なので、数年おきに異動があるようです。
淋しい反面、また入院してきたと思わせることがなくてよかったな、とも思いました。
ずいぶんたくさん書いてきた3回目の入院の記事は、とりあえずこれで終わりにします。
長々お付き合いありがとうございました。
と言いつつ、次回は3回めの入院であった、いろいろな患者さんのことをちょっと書きます。
同じ脳疾患後遺症でも、いろいろある。患者さんの家族模様もいろいろ。
本当に後遺症知るにつけ、いかに人間の体が精密に作られ連動して動いているのか、たくさん知りましたが、まだまだいろいろあるんでしょうね。
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☆この記事は2010年代初出のものを身バレ防止のため時期をぼかしてリライトしています。
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