障害者の気持ちは、外からはやっぱり分かっていなかった
昔、健常な頃、ある素人さんがネット上で公開している小説を読みました。
その小説のあちこちで胸が詰まり、主人公のけなげさに何度も目を潤ませ、鼻をすすりながら読了しました。
私は前回いつ泣いたか覚えていないほど、ほとんど泣きません。
その私が泣きそうになるほどのお話でした。
ところで私はその小説に限らず、物語や映画などの詳細なあらすじや最後にどうなるのかを忘れてしまいます。
「すごく感動した」「すごく面白かった」ということだけは覚えているのですが、我ながら自分の忘却ぶりにあきれてしまいます。
でも、いくつかの印象的なシーンを覚えているだけなので、再度読み直ししても初めて読むときのように楽しめるのです。
というわけで、ふとその感動的な小説を思い出し、また読んでみようと思いました。
主人公は、脳血管に先天的な異常を持っていて、いつ再発してもおかしくない、車いすの青年です。
同じような症状の私は、今こそ読み直そうと思ったわけです。
この小説の作者さんは、看護師をしている方でした。
当時は「外から」理解していた車いすでの問題や福祉の仕事、障害者の苦労、悩み、思いを、今当事者として読んで「ああ、作者さんは、本当に看護師なんだよな」と改めて思いました。
車いすのことも病院のことも、患者の思いもリアルです。
この主人公に起こっていることは一人の人がモデルではなく、恐らく見聞きしたいくつかの経験をモチーフのようにつなぎ合わせ、想像も交えて作ったんだろうな、と思いました。
けして、空々しくありません。
すべてがリアルです。
書いたのが看護師さんだったからだと思います。
医療や福祉関係者、患者本人でなければ、こういう形に表現できないだろうと思いました。
しかし、読み終わって「あれ…?」と思いました。
前に読んだ時のような涙腺のゆるみがないのです。
どこにもないのです。
当時、友人から「これ、すごくいいよ。泣いちゃった」と、この小説を紹介され、私も読み終わった後、別の友人に紹介したら「ワンワン泣いちゃった」と、感想を聞いたような話です。
今当事者になって読むと、主人公のおかれた環境、苦労、悩み、思いが「外から」ではなく、当事者として分かります。
それは、いちいち感動していない、日常なのです。
健常者から見た、障害者主人公の「けなげな様子」は、当事者にとっては、日常なのです。
当時、感動していた私は、やっぱり分かっていなかったんだ、と思いました。
その小説では、主人公の力になりたいと心から思う友人(健常者)が、主人公に「たまには昼間に外を散歩して、車いすで入れる店で外食しよう」と誘います。
世の中、いたるところで車いすに配慮した整備がされてきています。
そういうところを予めチェックしておけば車いすでも行けるはず、と思うのです。
しかし、主人公は嫌がります。
好奇な目や同情の目で見られたくないから、人目の少ない夜に買い物に出ていました。
車いす用スロープがある商業施設でも、店内は車いすが通れる幅がない通路があったり、段差があったり、車いす用のトイレがなかったり、あっても遠くて、急を要するときに困ったりするのです。
結局は、周囲の人の手を借りることになったり邪魔になったりすることがあるのです。
車いすは想像以上に、道の小さなでこぼこが強い振動となって体に伝わりますし、水平ではない道の端では、大きく斜めになるのを感じて、乗り心地が悪いのです。
押してくれている介助者に「水平で平らなところを選んで進んで。速いと怖いから急がないで。でこぼこがあるところは、そっと押して」と、いちいち言えませんが、いちいち言わないと、車いすの乗り心地は分からないと思います。
私の気持ちも交えて書きましたが、車いすで出かけるのは、想像以上に思い切りが必要であることを、私自身、病院を退院して家に戻ってから分かってきました。
私は、基本的には善良な人間だと思っています。
健常だった頃も、障害のある方を差別するなんてとんでもない、出来る限り助けたい、と思って行動していたつもりです。
世の中の大多数の人も、やはり善良な人だと思います。
でも、当事者の本当の日常、朝から晩までのこまごま苦労するすべてを、全部理解できるはずはないのです。
すべてを分かっている気になるのは驕りですし、すべてを分かってくれるべきだと思うのは、甘えです。
自分がそうだったから肯定するわけではないのですが、善良な人たちは、やはり善良なのです。
何とか力になりたいと思っているのです。
自己満足のために、思いやった行動をする人もいるでしょう。
でもそれは、人間が成長とともに形成される道徳心なのだと思います。
人間の様々な道徳心や倫理観が、人が棲む社会の基盤を形成しているのだ思います。
親切にされれば感謝するべきであり、分からないからと言って「ちっとも分かってないじゃないか」と言うのは間違いだと思います。
話はちょっと変わりますが、リハビリ病院に入院していた時の話です。
同室の方の娘さん夫婦が、3年生くらいの子供を連れてお見舞いに来ました。
その男の子は、私が車いすで動いているのを興味を持って見ていました。
「こんにちは」とあいさつすると、きちんとあいさつを返せる子でした。
他愛のない会話をいくつか交わした後、その男の子は
「ねえ、なんで、そんなしゃべり方なの?」
と尋ねてきました。
私のろれつの回らなさ、鼻から息が抜けているしゃがれた声が気になったようです。
両親はヒヤッとした顔で私を見ました。
私「頭の病気をしたら、こうなっちゃったんだよ」
子「なんで、頭の病気になったの?」
私「さあ、なんでだろうねえ? 分かんないけど。好き嫌いもしないし、健康だったんだよ」
子「僕知ってるよ! 悪いことするとそういう病気になるんだよ!」
私「えー! 悪いことしてないと思うけどなあ(笑)」
子「悪いことしなきゃ、そんなふうになるわけないもん。悪いことしたんだよ」
私「えー。そっかー。悪いことしたのかなあ」
……私はなんと返せばいいか結局分からず、話を変えました。
その子はきっとどこかで、そういうことを学んだんだともいます。
周囲の大人か学校か漫画や物語やテレビかもしれません。
その子はきっと「悪いことをしたら、それなりの代償を払うことになる」という倫理観を持っているのだと思います。
その子に「いい子にしていても、こうなることもあるんだよ。悪いことをしていても、病気にならない人もいるんだよ」と回答したら、その子の倫理観は崩れるでしょう。
私には、その子になんと答えてあげるのが一番良かったのか、未だに分かりません。
前にネットの掲示板で、ここぞとばかりに、車いすの人や妊婦さんを責めたてている人たちがいました。
「車いすで満員電車に乗るなよ。邪魔なんだよ」
「妊婦で具合が悪くなるなら、産休取れよ」
「立っていられないなら電車乗るな。タクシー使え」
……等々いろいろもっとひどいのもありましたが。
こういう人がみんな、障害を持つ身になればいいなあ、とか思ってしまう黒い私。
悪いことの罰で、体が不自由になるとはけして思いませんが、同じ状態になってくれないかなあ、とは思ってしまいます。
ひどい終わり方の記事だ。
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☆この記事は2010年代初出のものを身バレ防止のため時期をぼかしてリライトしています。
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※最近では「障がい者」「障碍者」という書き方も広まりつつありますが、私は「障害」の「害」を「害がある」とイメージしたことがないので、まだ今のところ変えていません。
「障害」は「障害」という意味のある一つ言葉であって、「障る、害がある」とは感じていないからです。